〈これからの人生 どう生きますか〉
誰しも生まれた瞬間から、死に向かって時を刻んで生きています。若い頃、自分が死ぬ事など微塵も考えていませんでした。祖父母、両親を見送り、始めて死を身近に感じ、大きな病気をして「死」は、私と隣り合わせに居座る事になりました。
平成25年4月(2013年)食道癌になりました。地元の県立中央病院で内視鏡的粘膜下層剥離術を受けました。食道癌を宣告される前には、「特にここが調子悪い」と言う訳ではなかったけど、近医にて「生活習慣病を改善したい」と受診していました。近づいてくる病気の足音を感じていたのでしょうか?タバコは20才過ぎてから、お酒は出産後からたしなんでいました。結局食道癌になり、お酒は止めましたが、タバコは、それでもなかなか止められず、本数は減ったものの何本か吸っていました。
食道癌の手術の後、定期的に胃カメラ検査は受けていましたが、体のあちこちに、今から思えばいろんなサインが出ていたように思います。まず不眠となり、眠剤を服用するようになりました。平成26年3月、この頃より時折咽頭痛を感じ、耳鼻科で喉頭ファイバーの検査をしてもらっています。その後も2~3回検査を受けましたが、異常は見つかりませんでした。平成26年5月には、排尿時に尿道痛があり、便器が真っ赤に染まる程の血尿が出て、泌尿器科で膀胱鏡やエコー検査をしてもらい、左腎結石と言われました。その後も2~3回、同じ症状を繰り返しました。平成27年7月には、大腸ファイバーの検査を受け、多発性ポリープを指摘され、入院しポリープを二個切除しました。
平成27年7月、食道癌の手術をしてもらった病院での胃カメラで、下咽頭癌が見つかりました。同病院では下咽頭癌の手術はしていないとの事で、インターネットで自分で調べ、大阪府立成人病センター(現在の大阪国際がんセンター)を紹介してもらいました。下咽頭癌は、縦隔にも転移し、食道にも浸潤しており、ステージ4bと診断されました。平成27年8月、12時間の手術を受け、永久気管孔になり、私は声を失くしました。
病気のサインは、体からだけではなかったと思います。私生活では、平成20年に離婚をしています。その後しばらくして、体調不良が続いていた母は、病院を受診し、末期の胃癌が見つかりました。平成21年3月(2009年)、30年近く勤めた職場を退職し、母を家で看取る事になりました。子供達にも手助けしてもらい、母の看病をしましたが、この頃の自分には余裕がなく、もっとこうしておけば良かったと、母の死後、後悔の念ばかりが残りました。仕事は、同時期に退職した友人が立ち上げた事業を、手伝うようになりました。家庭では、息子が対人恐怖症になり、家に引きこもるようになっていました。(現在は結婚し、仕事もしています)母の死後元気に一人暮らしをしていた父は、平成25年頃より認知症になり、実家へ介護に通うようになりました。しかし夜間、道路の真ん中を一人で歩いているところを、近所の人に助けてもらう事件があり、一人暮らしの限界を感じ、施設に入所する事になりました。父は昔からやんちゃな人でしたが、年を重ねるにつれ、角が取れ、丸くなり、愛しい父になっていきました。しかし私がその後、下咽頭癌になり、大きな手術をする事を知っていたかのように、「お前が元気だったら、それでいい」と話し、私の手術の6ケ月前、平成27年2月に、88才、老衰で亡くなりました。両親を亡くした事は、一人っ子の私にとっては、大きな喪失感となり、しばらく私を苦しめ、無気力状態が続きました。(特に母の死後の記憶が飛んでいます)
下咽頭癌を発症する前の数年は、体の不調と同時に、精神的重圧から、心身共に悲鳴を上げていたと思います。なるべくしてなった病気なんだなと感じています。大きな病気をした人には、発病前に心身に何らかのサインがある人が多いと聞きます。特に体を酷使している状態が続いたり、精神面でも疲れがたまり、限界状態になっている場合は、注意が必要になると思います。
患者会との出会い
この患者会を知ったのは、下咽頭癌の手術を受ける前に、頭頚部癌の患者会を検索していて偶然、大阪府立成人病センターの頭頚部癌の患者会にたどり着きました。そして初回のどんぐりの会に参加させて頂きました。主治医から手術の説明は受けていましたが、不安ばかりが先立ち、毎晩眠れない日々を過ごしていました。患者会では、同じ病気で、手術を受けられたFさんを紹介してくれました。電器喉頭機を使い、何不自由なく話をしてくださるFさんの元気な姿が、自分と重なり、ただただうれしくて、お話ししてくれている間ずっと、涙が止まりませんでした。Fさんからは、手術前後の話、永久気管孔になり、急に電車の中で咳き込んだ時の対応から、障害年金、傷病手当、地方の自治体により、対象者や公費負担限度額は異なりますが、日常生活用具の補助を受ける事ができる話、その他障害者になり、受ける事のできるサービスを教えてくれました。これは同じ病気で、同じように手術を受けた者でなければ、分かり合えないと強く感じました。この患者会で、私は手術を受ける勇気を頂き、その後患者会に参加させてもらう度に、元気と、希望を頂きました。しかし自宅が四国で、通院のため四国と大阪の往復を繰り返すうちに、患者会に出席する回数が減り、そのうちに全く参加する事ができなくなりました。しかし令和2年コロナウイルス感染症の流行により、患者会は開催する事が難しくなり、オンライン開催に変更されました。そのおかげで、自宅から久しぶりに皆さんにお会いする事が出来ました。患者会の会員の方は県外からの方も少なくないと思います。今後コロナウイルスの感染が落ち着き、日常が戻ってきても、オンライン参加も認められるようになれば、うれしいなと思います。
術後の生活
私は若い頃より特に運動もせず、体は多少無理しても「私は大丈夫」と言う根拠のない自信があり、偏った食生活をしており、チョコレートの大袋を2日で一袋食べていました。患者会、本、インターネット等の情報を整理していくと、せっかく手術して生かして頂いた命、又同じ繰り返しをしてしまうと、生活習慣の見直しの必要性を痛感しました。
食生活では、無農薬の人参を購入し、人参ジュースを毎朝飲んでいました。主食は白米から玄米に変え、牛肉、豚肉を止め、魚、野菜、鶏肉を中心の副食にし、味付けは、砂糖を使用せず、少量のみりんを使っています。もちろんお菓子は、ほとんど食べていません。年に数回和菓子やケーキを食べることはあります。
次に体を冷やさないように注意しています。冬期は遠赤外線のマットを敷いて寝ています。
お風呂はできるだけ、湯船に浸かるようにしています。家の中では5本指の靴下を履き、温熱療法に通い、三井式温熱治療器を使っていました。
睡眠は十分取るように努めていますが、私は術前より、眠剤を服用しており、術後も永久気管孔になった事により、ゆっくり、ぐっすり眠る事が難しくなっています。常に喉元を押さえつけられている感じがあり、よっぽど疲れている時でないと熟睡感は得られません。
ストレスはできるだけためないようにと思っています。しかし1ヶ月毎の通院、3ヶ月毎の検査は術後もずっと続いており、検査結果を聞く事は大きなストレスになっています。それに加え、永久気管孔になり、体の機能の変化によるストレスも長期間続いています。
運動は、ラジオ体操第一第二から始まり、ストレッチ、散歩等できるだけ一日一回は、体を動かせるようにしています。このように術後は、できるだけ気を付けて、日常生活を送るようにしていますが、ストレスと睡眠には今も苦労しています。
仕事は、病気に対しての理解があり、短時間勤務にしてくれ、定期的通院や検査にも休みをくれました。仕事内容も会話ができなくなった事により、事務に変更してくれました。ただ社会とのつながりができる事は、生活が豊かになり、心の健康を保つ事に役立ちました。又人とのつながりにより、幸せを感じる事ができました。
五度の再発
① 平成28年10月(2016年)右頚部のルビエールリンパ節への再発が認められました。術後1年3ヶ月目の検査で指摘され、ショックを受けました。まさか再発するなどとは考えていませんでした。娘がサイバーナイフの治療が良いと調べてくれ、放射線の先生に相談し、セカンドオピニオンの先生に紹介状を書いてもらい、千葉の病院まで娘婿が車を運転してくれ、連れて行ってくれました。再発巣の大きさが治療の対象より少し大きいので、サイバーナイフでの治療は難しく、大阪府立成人病センターが提示してくれた放射線と抗がん剤治療を受ける選択をしました。
一回目の手術の後、放射線と抗がん剤の治療は受けた事がありました。下咽頭癌の病巣は食道にまで浸潤しており、下咽頭癌の手術の後しばらくして、食道の手術(内視鏡的粘膜下層剥離術)を受けました。その時の病理組織の検査結果で、術後放射線と抗がん剤をした方が良いとの事で受けました。副作用は、脱毛はなく嘔気もほとんどなかったです。骨髄抑制作用のため、白血球数が減少しました。又味覚に変化があり、何を食べてもゴムの様な味で食欲は減りました。再発時の副作用は、抗がん剤は同じだったので、ほとんど症状は変わりませんでした。放射線治療は、照射部位が少し異なりました。
照射後右頚部が焼けただれ、表皮剥離があり、真皮ができるまで、しばらく時間がかかりました。治療後体力が回復してから職場に復帰させて頂きました。
② 平成30年4月右頚部のリンパ節二ヶ所に再発が認められました。治療後1年3ヶ月目の検査で指摘されました。ショックと同時にこんなに頑張っているのにどうしてと、くやしい気持ちで一杯でした。頭頚部外科の主治医からは、一ヶ所は手術で、もう一ヶ所は放射線と抗がん剤治療を考えていると説明がありました。再再発でしたが治療をして頂き、無事退院する事ができました。治療後は又、職場に復帰させて頂きましたが、仕事場は平成30年11月で閉める事になり、働く場所を失いました。
そして丁度この頃から、代替療法、統合医療を受診し、高額なサプリメントを飲んだり、勧められるままに、サイモント療法なども受けた事があります。又地元の知人に、この治療法が良いと言われたら、東京まで免疫治療を受けに行っていました。このように大阪の病院と同時に、他の治療を2年近く続けていました。今から振り返ると、再発を繰り返す中で、不安が大きくなり、これさえあれば大丈夫と、自分を支えてくれるお守りのような存在が欲しかったのだと思います。
③ 平成31年4月右頚部リンパ節に再発が認められました。前回の治療から一年経っていませんでした。頭頚部外科の主治医からは「薬物治療しかありません」「緩和ケアも考えて下さい」と、地元の緩和ケアの病院に紹介状を持ち受診しました。しかし放射線科の先生は、「遠隔転移はなく、一ヶ所の再発なので何とかしたい」と、BNCTの治療を紹介してくれました。BNCTとは、ホウ素中性子補足療法と言って、がん細胞に取り込まれやすいホウ素薬剤を、点滴で患者に投与し、その上で中性子線を患者に照射すると、がん細胞に取り込まれたホウ素が、リチウム原子核とアルファ線に核分裂し、発生したアルファ線が、がん細胞を内部から破壊する仕組みになっており、周辺の正常な細胞を傷付けにくいとされています。令和2年6月には、再発頭頚部癌が保険適用となりました。私は保険適用前に、川崎医大で、平成31年(令和元年:2019年)9月にBNCTの治療を受けました。BNCTの副作用は少ないとされていますが、治療後右側頭部の髪の毛がほとんど抜けてしまいました。治療当日は発熱があり、その後一週間程は、体が宙に浮いたようで、全身倦怠感が続きました。退院前より口内炎ができ始め、食事の時痛みを伴うようになりました。口内炎は1ヶ月程続きました。痛み止め入りのうがい薬を処方してもらい、6時間毎に痛み止めを服用する時期もありました。体重を減らさないようにと、柔らかい物を工夫して食べましたが、高カロリーのエンシュアも処方してもらい食事と一緒に摂取していました。退院後1ヶ月目、3ヶ月目、6ヶ月目に造影CTの検査を受けました。6ヶ月目の造影CTでは、再発巣は死骸になっていますと説明を受けました。死骸と言うのは、非活動性であるけど、いつ目覚めるかもわからず、そのまま眠ったままの状態でいるか、経過を注意して診ていく必要があると、死骸のとらえ方の難しさの話がありました。又治療後再発する患者さんもいるとの事で、抗がん剤を最低6ケ月間服用して欲しいと言われ、大阪国際がんセンターの頭頚部外科の主治医が、抗がん剤を処方してくれ、10月から令和2年3月(2020年)まで6ヶ月間服用しました。
④ 令和2年6月右頚部のリンパ節に再発が認められました。BNCTの治療後、地元の病院で治療、検査を受けていました。抗がん剤の服用が終わり、令和2年6月にPET CTの検査を受けました。検査結果を聞きに行くと、再発転移なしとの事で、とてもうれしかったです。しかしこの時、BNCTの治療をしてくれた川崎医大の先生に、検査結果がわかれば教えてほしいと言われていましたので、検査結果を送ってくれるように依頼していました。最終的には、川崎医大の先生が、再発巣を見つけてくれることになりました。この一件で地元の病院の頭頚部外科、放射線科の先生に不信感を持ってしまい、引き続き治療を受ける事ができなくなりました。
以前大阪国際がんセンターで、御世話になっていた放射線科の先生が異動され、大阪大学に行かれていました。地元の病院の先生に、セカンドオピニオンを受けるための紹介状を書いてもらい、大阪大学の放射線科を受診しました。1回目、2回目の再発時に右頚部に放射線を照射していますが、もう一度照射できる可能性はあると話してくれました。その上で、今迄の病状も治療も知ってくれている大阪国際がんセンターで治療を受けるのが一番良いと、大阪国際がんセンターの放射線科の先生に連絡して下さり、頭頚部外科には紹介状を書いてくれました。その結果、4回目の治療は、大阪国際がんセンターの放射線科で令和2年8月から9月にかけて、全部で5回右頚部に照射を受けました。ただ右頚部には、3回目の照射の為、命に係わるようなリスクがあるとの説明があり、治療に対しての覚悟はしていました。
⑤ 令和3年3月、放射線治療後6ヶ月目のPET CTにて右頚部リンパ節への再発が認められました。頭頚部外科の主治医からは、腫瘍内科での薬物療法を勧められました。又今後の為にと、緩和ケア、在宅医療の相談を、患者総合相談室で受けるように話がありました。
腫瘍内科の先生からは、免疫チェックポイント阻害剤の説明がありました。治療効果があれば続けて、もし効果がなければ、殺細胞性抗がん剤と分子標的治療薬の併用療法を提案されました。この治療により再発巣がなくなる事はなく、効果が続くのも限りがあると、希望の持てる説明ではありませんでした。
令和3年4月に入院し、CVポートの埋め込み術を受け、免疫チェックポイント阻害剤の点滴を受けました。
家族・友人への感謝
私の娘は、私の病気が発覚した時は、新婚ホヤホヤの妊婦でした。その時娘のお腹にいた孫は、令和3年4月で5才になりました。私の病院受診時は必ず送迎してくれ、セカンドオピニオン、BNCTの治療等も、娘、娘婿も協力してくれました。家族の支えがなければ、今私はここにいません。息子は言葉少ないですが、心配してくれている気持ちは伝わります。考えれば私が病気になった事により、娘家族の生活に大きな影響を与えました。本来なら、出産も里帰り分娩で、ゆっくりした時間を過ごさせてやりたかったと思います。娘家族は何も言いませんが、ただ一度だけ娘が「母さんは、病院で先生、看護師に話を聞いてもらえるが、私は誰にこの気持ちを話したらいいの」と、つぶやいた事がありました。患者の家族は第二の患者と言われており、支える側の心の葛藤と、一緒に向き合い、話ができる場所が必要になると感じました。
友人にも感謝です。声を失くした私に、以前と変わらず接してくれてありがとう。仕事を続けさせてくれてありがとう。治療に苦しい思いを、黙って聞いてくれてありがとう。どれだけ支えられたかわかりません。本当に私は、皆に生かされて、今ここに生きています。
医師とのコミュニケーション
頭頚部外科の主治医とは最初から現在に至るまで、良い関係を築く事ができませんでした。受診時には、聞きたい事等を一枚程度の手紙にして、先生に手渡しますが、その一つ一つに納得できる答えを返してくれた事はありませんでした。外来、病棟、手術と忙しい毎日の中で、一人ずつの患者に時間をかけ向き合う余裕はないと思います。もちろん手術をして頂き、今まで治療をして頂いている事には、深く感謝しています。でも何回も再発を繰り返す中、2回目の再発の時には、「もうこれが最後の治療です」と発した言葉に、先生は気づいてないとは思いますが、患者としては、次再発したら治療はできないんだと、深く傷ついていました。この時から検査結果を聞くときは、ショックを最小限にしたい為に、先に放射線科の先生に診てもらい、説明、相談をした後、頭頚部外科を受診していました。2回目の再発時、頭頚部外科の主治医は、最初から薬物療法を考えられていました。放射線科の先生は、一ヶ所は手術で、もう一ヶ所は放射線と抗がん剤の治療を、先生方の合同カンファレンスで提案してくれたと聞きました。その後3回目、4回目の再発時の治療も放射線科の先生と相談して治療を受けて来ました。頭頚部外科の先生は、標準治療が終わり、再発した患者には、親身になり治療を考えてくれなかったように感じます。先進医療についても、否定はしませんでしたが、あえて勧める気持ちもなかったのだと思います。放射線科の先生は、再発の度一緒になり、治療を考えてくれました。
医師とのコミュニケーションを上手く築く事は、その後の治療に大きく左右すると思います。コミュニケーションを上手く取れない医師と、長い間治療を続けるのは、メンタル面にも影響してきます。患者総合相談室に相談するのも良いと思います。少しの勇気を出して、自分が納得できる形で治療に臨む事が一番だと思います。
安心・安全な医療
私は2度目の再発の時、全身麻酔で右頚部リンパ節切除術を受けました。術前に麻酔医の診察があり(手術当日の医師とは違う)、手術室の看護師の訪問がありました。当日その看護師が担当してくれると聞くと、全面的に信頼感を持ちました。手術当日、手術室のベットに腰かけると、前には多数の医師、看護師が並んでいました。「麻酔科の医師は誰だろう、今に名前を名乗ってくれ、これから麻酔をかけますと言ってくれるんだ」と思っていましたが、結局誰が麻酔をかけてくれる医師か分からず、いつから点滴され、眠くなるのかも分からず、まだ意識があるうちに、挿管チューブと喉頭鏡が目の前に来て、とても怖い思いをしました。普通は眠りに入ったのを確認して挿管するのでしょうが、私の場合は、挿管チューブが入るのと、眠りに入るのが一緒でした。挿管される前に、私の横に術前に来てくれた看護師がいました。まだ意識があるよと、すがるような眼差しで見ました。視線が合いましたが、何もなかったかのように知らん顔でした。手術後、病棟の苦情箱に手術当日の事を書いて入れました。翌日麻酔科の医師が来られて、一応謝罪をしてくれましたが、その医師が「最後に言わしてくれるで」と、「この病院は、手術件数が多くて、バイトの医師にシフトに入ってもらっている」と、付け加えられました。この病院の麻酔医は悪くないとでも言いたかったのだろうと思います。又術前に訪問する看護師は、何の為の術前訪問なのか、もう一度考えて欲しいと思います。私が考える術前訪問は、患者からの情報収集と同時に、患者にも安心感を持ってもらう為ではないでしょうか。
手術件数も増加する中、医療の進歩とともに、日々煩雑化する医療現場、医療スタッフに私達患者の声は届いているのでしょうか?
これからの人生、どう生きますか
令和3年8月19日(2021年)で、手術を受け6年になりました。病気を宣告された時は、東京オリンピックは見る事はできないだろうと思っていましたが、コロナの影響で、一年遅れで開催された東京オリンピック、しっかりテレビで観戦する事ができました。
考えれば手術をしてから、心から笑った覚えがありません。術後短期間で、5回の再発を繰り返した為、メンタルの立て直しに必死で、笑顔は忘れていました。とにかくずっと病気を完治させる事に一生懸命で、又自分自身とゆっくり向き合って来ていませんでした。そして今完治は難しく、これからはがんと共存していかなければいけない段階で、体験談の話を頂き、改めて自分自身と向き合う機会を持つ事ができました。
もちろん病気になり失くした物は沢山ありますが、得た物もあります。同じ病院で入院中に知り合った友人、退院後もラインで連絡を取り、お互い励まし、励まされる関係になりました。患者会でも、永久気管孔になり声を失くした私に、「出来ないことを嘆くより、出来る事を楽しもう」と、言葉をかけてくれました。私のその後の生き方の手本になりました。そして一番には、当たり前の日常が、とてもありがたくて、大切な時間である事に気づかせてくれた事です。命には限りがある事、生きていること自体が奇跡であり、無駄にする時間はないと教えてくれました。
今私が、これからの人生を考えると、この世に生んでくれた両親、そして支えてくれている家族、友人に感謝し、一度しかないこの人生、過ぎたことをクヨクヨ考えず、「今」この瞬間を大切に、笑顔で、楽しく過ごして行きたいと思います。
焦らない、慌てない、諦めない人生を
できることなら、声を失くした私が、誰かの役に立てる仕事ができれば良いかなと願っています。
最後になりましたが、私の体験談にお付き合い頂き、ありがとうございました。
追記
この春、頭頚部外科の主治医が異動されることになりました。
今考えてみると、最初から、先生を勝手にイメージ付けして、自分自身が傷つくのを恐れてもう一つ踏み込んだ話ができず、最後まで平行線で終わってしまった事を後悔しています。私がもっと自分の気持ちを素直に、先生に伝えていれば、又違った結果になったかもしれません。
ただ今は、感謝と、今後の先生の御活躍を祈るばかりです。
2025年4月 記